石戸家の南部鉄ビン

石戸家の南部鉄ビン

祖父浅吉と家族たち

祖父浅吉と家族たち

当時の中国大陸

当時の中国大陸

当時の石戸豆腐ファミリー

当時の石戸豆腐ファミリー

昭和40年代のいしど画材

昭和40年代のいしど画材

(1)うちには古びた南部鉄瓶が、ひとつ家宝のように残されている。その昔、オヤジが私にこの鉄瓶を見せて、祖父や曾祖父の話を幾たびかしてくれた。オヤジの名前は石戸豊作。

鉄瓶がいつ頃から我が家にあったのかはわからない。話は農家だった曾祖父「六之丞」から始まる。ときは江戸から明治に変わろうとしている頃。柏駅付近は、幕府の野馬を放牧する小金牧で、野馬土手のこちらには、雑木林や田畑が広がる寒村だった。もちろん駅もなく、鉄道が引かれるのは、これから約三十年後になる。

ある日、曾祖母が畑から戻り、夕げの支度を始めると鉄瓶がない。なにしろ家財道具といえば、鉄瓶と鍋と釜だけの、どん底の貧乏暮らし。困って探していると「身上はくれても鉄瓶はくれない」といいながら、酔っぱらって六之丞が帰ってきた。どうやら鉄瓶を売って、その金で酒を呑んできたらしい。「鉄瓶どうした」ときくと、「十五文で売ってきた」と六之丞。

あきれる曾祖母に「買い戻して来るから十五文よこせ」という。こんなに酔っていては夜道は危ないと、曾祖母が酒屋に走る。店に訳を話して「買った値段で返して欲しい」と十五文差し出すと、「いや十文だったよ」と鉄瓶を返してくれた。どうやら六之丞は、かみさんからごまかした五文で、『また一パイ飲み直そう』と思ってたらしい。

身上を呑みつぶして、どん底の貧乏生活になってもなお呑み続けた六之丞。家族たちは苦労したにちがいない。しかし私には、六之丞じいさんがどこか憎めない、豪快で気のいい人に思われてしかたない。

(2)のんべで気のいい曾祖父、六乃丞の三男浅吉は働き者で、腕のいい大工だつた。私の祖父にあたる人だが、大正の初め頃沼南の大井から柏、千代田村に越して来たようだ。

数年前に県営軽便鉄道(現在の東武野田線)野田・柏間が開通。大正元年には常磐線上野・我孫子間が複線化、翌二年には千代田村に始めて電灯がともり、柏は活気づきはじめていた。この頃の大工の一日の手間賃は一円十八銭、働き者の浅吉は柏に土地と家を持つことができた。

祖父は事業欲も旺盛で、マッチカラ工場や炭焼窯を作り、マッチ箱や炭の販売もしていたという。

豊四季の諏訪神社の入口、馬の像の脇に小さな神社が建っている。今では祖父の仕事の片鱗を残す唯一の建物だ。

親父は祖父浅吉とよく似ていると言われる。祖父はいっこくな人で手も早く、親父には恐い存在だったそうだ。あの頑固だった親父にも、恐い人がいたのかと思うと嬉しくなる。

その祖父から「この鉄瓶はいわれのあるものだから大切に使え」と親父に手渡されたのが写真の南部鉄瓶だ。親父はこの鉄瓶を戦時中の金属提出の時には倉の梁に隠し、大切に守っていた。大切に仕舞いすぎて、私は子どもの頃、これを見たことがなかった。

(3)大正に生まれ、昭和を駆け抜け、平成に逝った親父、豊作は人々にヨッポレ(頑固者)と呼ばれた。

大正デモクラシーを謳歌した日本は、昭和となり、景気の悪化、大戦勃発へと暗い時代に突入していくのだが、親父は明るいヨッボレだった。昭和六年、宿連寺で近衛四連隊の演習、八年、町村ごとの防空演習と、柏にも戦争の影がしのび寄ってきた。駅前で運送業を営む兄の仕事を手伝っていた親父の生活も戦争一色となつていく。しかし、いかにも親父らしいのは、戦争に巻き込まれるのではなく、それを逆手に取っていることだ。

親父は満十七歳になった時、志願して野戦重砲第七連帯に入隊した。当時、二年の兵役制度があり、除隊時には運転免許証がもらえる。「一人前になって二年間兵役にとられるより、十九歳の除隊時に免許をもらえば、兄貴の仕事をもっと手伝う事ができる。」それが理由だった。

兵役をさっさとすませた親父は、昭和十年中国大陸に渡った。中国情勢は険悪になる一方で、日本人の身の安全など保証はまったくない。

そんな土地で親父は運送業を始めたのだ。済南を舞台に、トラック二台で前後を見ながら砂煙をたてて走る。一台が故障したらロープで引っ張り、ともかく走る。日本の警備隊のいるところまで辿り着かないと、車を燃やされ、荷物を盗られて捕まってしまう。まさに命がけの仕事だった。

戦況が悪化し、九年余りの中国生活を終えて、日本に帰った親父は柏に土地を買った。しかし、本当は中国からボルネオに移り、「今度はバス会社でたっぷり儲けよう。」と企てていたらしい。戦争が無かったら、私はボルネオ生まれだったかもしれない。

(4)昭和二十八年、柏駅の乗降客は二万人をかぞえ、南柏駅も開設された。翌二十九年には町村合併で市政がひかれた。柏市の誕生だ。 柏は戦後の復興に本格的に立ち上がり始めた。中国から戻り、運送業をしていた親父はこの年、「せんべいやは二升、豆腐屋は四升つぶせば親子が食える。」と言って豆腐屋をはじめた。

豆腐にしたのは、せんべいだと原料が統制中の米で、ヤミ米を使うしかないが、大豆は統制がはずれる日は近いとふんだからだった。

自動車しか知らない親父にとって、まるで別世界の豆腐屋は、ニガリの量や製造工程がすべてカン、職人の仕事だった。はじめは豆腐を手の平にのせることもできなかったという。

今、豆腐はコンピューター制御の機械でスイッチひとつでパックに入った豆腐が出てくる時代になった。

親父が機械化を始めたのが早かったのはそんな理由があったのかもしれない。職人を三人置き、二十人位が働いていた。

一日七人百から千二百丁の豆腐を作り、これを店と外売り、卸でさばいていた。八百屋や魚屋に卸したのも柏では親父がはじめてだった。

ニガリの使用量も県下一、スマシコに切り替える店も増える中、作りたての豆腐のホロッとした苦みが口に拡がる味を頑固に守った。「うちから独立した店の豆腐はおいしい!」と誇りを持っていた。しかしその分、「この湯豆腐はまずい。」とうるさくて、家族からは 「お父さんはやかましい。」と、けむたがられていた。

(5)親父が豆腐屋を始めてまもなく、柏に大火がおきた。この火事で柏東口の中心部三十三世帯が焼けてしまった。しかし、この大火が商店街をガラリと変えることになる。昭和三十一年、防災建築第一期工事がはじまり、その後第二期、三期と続いた。駅前にあった木造商店楷は、防災コンクリートのビル街へと変わった。

つぎつぎと建ったビルを眺め、一番上の姉が「うちも建て替えよう」と言い出した。親父は子ども達に向かって、「借金コンクリートのビルは、借りたお金が払えなかったらビルも土地も取られちゃうんだよ。それでもいいか?」と念をおした。親父の性格は子どもが一番良く知っている。「それでもいい」子ども達は覚悟して答えた。

祖父から「家中がやるという時は間違いない」と教えられていた親父はこれで建て替えを決断したそうだ。

「子ども達に言われなかったら、ビルは建てなかった」と言っていた。

昭和三十人年、第九期工事としてビルが完成した。貸ビルも始めた。

豆腐屋はその二年後、廃業したのだが「柏には絵具屋がないから画材屋をやろう」と言う姉のひと言でいしど画材を開業する。どうやら新しい事をしたがる遺伝子が我が家には流れているらしい。

それでも豆腐から画材への方向転換は、大変な苦労で、最初の二、三年は儲かったか否かもわからなかったという。軌道にのったのが昭和四十七年頃で、玩具も扱い始めたクリスマスの夜、「今日一日の売り上げが豆腐屋時代の一ケ月分だ」と感慨深そうに言った親父を今でも憶えている。

画材屋をはじめてから三十年以上が経った。いつの間にか豆腐屋時代より長くなっている。

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