屋根と看板と屋号のついた

屋根と看板と屋号のついた俺たちの店「梅林堂」

昭和27年、俺とカミさん、長女勝代、二女百合子と店頭にて

昭和27年、俺とカミさん、長女勝代、二女百合子と店頭にて

昭和30年代はじめの柏駅前

昭和30年代はじめの柏駅前

♪サァ−イサイ、 見いなんせ、買いなんせ、備前の名産水みつ桃、紀州じゃ有田のみかん入り、青森県では林檎入り、信州名産ゴマとハッカのすい合わせ、台湾名代のバナナ入り…それ、まけとけ、そいとけ、おまけがどっさり♪俺は関谷重元。浅草生まれ。これは俺が子どもの頃、縁日で覚えた歌だ。この歌を歌いながら戸板の上に飴を並べて商売を始めた。のちの梅林堂だ。昭和20年11月、戦争で家を焼かれた俺は、カミさんと産まれたばかりの娘と、「夢」という言葉と一緒に柏の駅に立っていた。ここで商いをしようと胸に秘め。まず、柏の駅前でムシロを広げて野菜を売った。近くに八百屋が出来たので、今度は果物を売った。そして戸板を買って駅前で飴屋の露天を始める。戦争直後の柏はほんとうに田舎だった。雨が降るとカミさんの顔が涙と雨粒で濡れた。俺は心の中で『ヘコタレルナ』と何回もつぶやいた。絶対、屋根のある店を持ってやるぞ。カミさんに誓った。昭和二十一年、普通の民家一軒が約五万円していた。今の俺達の全財産は三千円也。

柏駅前で戸板に雨を並べて始めた行商が、今思えば梅林堂のルーツだった。俺はともかくカミさんとカミさんの背中で寝ている娘のためにも屋根の下で商売をしたかった。黙っていたってお客は通り過ぎて行っちまう。子どもの頃縁日で覚えた「久留米梅林堂の歌」を歌い必死で客寄せをした。 ♪サァ−イサイ、見いなんせ、買いなんせ♪ 昭和二十三年、柏駅に列車は一時間に一本しか来ない。おかげで列車待の人もお客になってくれた。次女も生まれ、俺は夜中だって商売をしたかった。その頃、俺達は名戸ヶ谷の農家の納谷に住んでいた。が、どうにも戸締りが悪かった。ある晩、眼が覚めると出刃包丁を持った強盗が俺に馬乗りになっていた。「金はどこだ」出刃が俺の鼻先へ迫る。、カミさんを横目で見ると、二人に子どもをかかえて布団の中で震えている。強盗は二人組みだった。口惜しいが命の方を大事にしよう。無一文になった俺達は、また一からの出発だ。辛いときはこの言葉を思い出す。「ヘコタレルナ」これは俺の尋常小学恋校の先生が教えてくれた言葉だ。次の日から、カミさんも俺も手と足がバラバラになるほど働いた。駅前に並べた戸板は飴で大きくしなっていた。

間口九尺奥行九尺、柏駅前の店の権利「五萬円也」。ふらリとやって来たお客が落花生を一袋買いながら、誰か借り手を探していると言う。おどろいた。俺の貯金通帳には五万円。これっきりの五万円が入っていた。このチャンスを逃す手はないと、俺は自転車で家まで通帳を取りに帰り、その日のうちに契約した。ひょんなきっかけで俺たちは駅前で店が持てた。ほったて小屋のような店だが屋根はついている。この名前もない店の次は、隣の角の店に進出だ。昭和二十三年十月、念願の角地に店舗ができた。屋号は「梅林堂」。くるめ梅林堂の歌からいただいた。今度は風が吹いても飛んでいかない屋根もついている。太い文字で大きく書いた看板も掲げられた。「梅林堂!」俺たちの店だ。これまで食いたい物も我慢して一緒のやってきた、ツギハギだらけのカミさんも、まあるい顔をくしゃくしゃにしてないてやがる。新しい店でカミさんは、重い下駄なんか履いてられないと裸足で始発から終電まで店に立った。商いの神様はエビス大黒だったっけ、商売繁盛ありがとうございます。とりあえず商いの神様と俺のカミさんに最敬礼だ。

昭和二十五年、初めて住まいと合わせた新しい店が出来た!たいした 店ではないが俺には御殿にも勝る。今夜は初めて「家」と名のつく所で寝られる。「本当に天井があるわ」カミさんが布団の中でつぶやいた・・・。翌年二月、この日は大雪だった。俺は東京に仕入れに行って帰りは大荷物だ。重い荷物を背負って雪の中、やっとの事で駅まで辿り着いた。ところが終電車はいっちまった。なんてこった、俺は途方に暮れた。天の助けか、貨物列車が動き出そうとしている。俺は列車の前の狭いプレートの上に飛び乗っていた。走り出した、雪がまともに顔にぶつかってくる。息もできない。後悔してももう遅い、死神と一緒にいる俺のことなんか、知るはずもない列車は暗いレールの上をひたすら走っている。ブレーキの音がした。どうやら柏駅に着いたようだ。なんとか生きている。駅に降りると、カミさんは涙のはりついた顔で、百合子をおぶって勝代の手をひき、雪だるまになってたっていた。それからまもなく三番めの子どもが生まれた。また女だ。「名前なんてなんでもいいよ。」それを聞いて怒ったカミさん、さっさと「広美」って名前をつけちまった。

昭和二七年、俺は店にネオンをつけた。俺の街、柏をもっと賑やかにするぞ! 俺はこの二番街を「人を呼ぶ街」にしたい。クリスマスがやって来る師走の商店街にギラギラの飾りモノを担いで走りまわる。「ヨーシ、日本一の飾り付けをするぞ!」後ろからカミさんが俺を呼んでいる。店が忙しいんだろう。振り返ったろおしまいだ。連れ戻される。商店街の飾り付けが終わるまで、俺の耳は何もきこえねぇ。翌年俺は店の宣伝にちんどん屋を雇うことにした。ホントは俺が「丹下左膳」を演じたかった。何故かって?実はここだけの話、俺は役者になるはずだった。子どもの頃から浅草で活動写真を見続けていた俺の心の中には「丹下左膳」が棲みついちまって、十七歳の時には阪妻のプロダクションに入っていた。ところが兄貴の事故で家業の佃煮屋を引き受ける事になり、銀幕の夢は断念だ。天を恨んでもしかたがない。ここでやらなきゃ男じゃない。俺は次の日から桶を担いで下町の通りに売りに出た。朝は納豆、午前は佃煮、午後はおやつの金ちゃん豆、夕方佃煮、夜また納豆。子ども達に金ちゃん豆を売るときは、黄金バットの紙芝居に負けられない。丹下左膳になって殺陣をきる。俺の舞台は下町の路地だった。

昭和二十九年、柏も市になった。店にも駅前商店街にもネオンサインがついて賑やかだ。店の宣伝の為にちんどん屋を雇っていたが、「うちにも紹介して下さいよ」と周りの商店の頼みで、俺は柏のちんどん屋斡旋所みたいになっちまった。昭和四十一年、いよいよ五階建てのニュー梅林堂のオープンだ。今度の店はお菓子とパン以外に洋食と中華料理にも挑戦だ!商いのコツはアイデアだ!お客を引きつけておいて商売をする。景気のいい時はどこの店でも買う。不景気になると俺は「しめた」と思う。チャンスなんだ。どんな状況にあったって「ヘコタレルナ」の精神だ。現在皆様に可愛がっていただいている梅林堂は昭和五十七年にオープンしたものだが、思えば終戦直後、ムシロ一枚の飴屋から始めたんだったけ。当時、俺はどん底の生活をしていた。身を捨てて浮かぶ瀬もあれ、人がまだやっていないことをやろう。一番好きなこと。それは「チャンバアラと唄うこと」これを商売の道具にして俺は丹下左膳になり、はや五十余年。平成十三年で梅林堂五十三周年。皆様のおかげと、手前味噌だが当時の苦しい経験と、笑うと顔がくしゃくしゃになるカミさんのおかげかな、と心のなかで感謝している。

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